1999年4月
岩波講座実行委員会
前文
須坂の地は、古くから北國脇住環松代通り(別称、谷街道又は北國裏街道)と菅平高原を経由する群馬方面からの大笹街道の要衝として栄え、近代に至ってその蓄積された富を元手に製糸産業が勃興した。戦後は通信機製造業が盛んであった。
教育文化面では、明治、大正期から中等教育の普及、戦後の公民館活動の活力によって小粒ではあるが種は既に蒔かれており、土壌は涵養されている。名もない草の種は土の中に無数に眠っているが、一定の条件を満たされないと発芽しない。その条件は、気温であり、陽の光であり、水でありいろいろあるだろう。いまその条件づくりの火付け役が求められている。
ウィーンを、音楽の都たらしめているのは、音楽を学んだ人たちが普通の市民生活の中で、音楽を楽しんでいることが楽都として名声を不動のものとしているという。
須坂では時あたかも「ブックランド」構想がある。本を作って、保管していただけでは”仏作って魂入れず”になってしまう。ウィーンのように、市民がその生活のごく自然な一部分として読書(会)や講座、あるいは公開討論などを根づかせることが出来たならどんなにか素晴らしいだろう。
須坂市が現在進めている江戸時代からの400軒を越す県下屈指の土蔵屋敷の保存やメセナホールを中心とした文化拠点づくりの中に「信州岩波講座」が位置することによってその町づくりは一層しっかりした哲学をもつと言えるのではないだろうか。
一方、活字文化の危機が言われて久しい。本が読まれないという。とくに若者の活字離れは深刻である。例えば、岩波新書は、1970年代半ばまでは読書の半分は大学生だったという。それがいまは1割程度でしかない。日本社会全体をみても70年代半ばから、一般社会に若者の読者人口は激減していく。そして、本を読まなくなった層が今日、社会の中枢になろうとしている。
「人間は考える葦」とは哲学者パスカルの言である。人は長い間、字を読み、書くことによって人間形成をしてきた。人が本を読む力を失うとき、考える力も失うのではないか。読書力の衰えが思考力の劣化を招くとすれば、まさに「人間」が変わる。人間の文化が変わる。最近、頻発する子どもたちの言語を絶する非行は、そのような背景の”負の表れ”ではないだろうか。
岩波書店は1913(大正2)年の創業以来一貫して、学術・文化の総合出版社として、その歩みを続けている。1927(昭和2)年に古典の普及をめざして岩波文庫を創刊し、1938(昭和13)年には前年に始まった日中戦争とその時流に抗して岩波新書の刊行を開始した。また、第二次世界大戦における日本の敗戦を天譴とし、再び戦争をしないという国民意識の形成のために、雑誌「世界」を創刊した。岩波書店は学術文化の振興と社会進歩の志をかかげ、今日ますます出版の本道を歩もうとしている。
信濃毎日新聞は、長野県民の主読紙として125年余の歴史の中でたえず地域社会の文化と産業の興隆に役割を担ってきた。岩波書店の創業者岩波茂雄が長野県出身でもあることから、両社は長く深い友誼の絆で結ばれている。近時、故安江良介岩波書店前社長は6年間に亙って「今日の視角」にレギュラー執筆者として健筆をふるい、講演会や出版活動でも特別な関係を築いてきた。
また、信濃毎日新聞社は新聞社の諸機能を駆使して、県民の文化的要求、スポーツ振興等に特別の貢献を惜しまなかった。
われわれは間もなく誰しも新しい世紀のスタート台に立つ。21世紀はどのような世紀になるのか。いかなる世紀にしなければならないか。われわれの前におかれた課題は極めて大きい。より広く、より深く考えることによって、よりよい実践をなし得たい。これがこの講座にこめられたわれわれの思いである。
「信州岩波講座」は、須坂市、岩波書店、信濃毎日新聞社の三者の枠組みを基礎に【市民】が主体となって構築されることが必須の条件である。21世紀に須坂市が、真に市民文化の花開く町になっていくことがわれわれの共通の願いである。「信州岩波講座」が、その為の地平を拓く役割を担うことができれば、蒔かれた種は必ずや芽吹くであろうと確信する。
その役割は、自主的な市民ボランティアグループ(ふおらむ集団999)によって担われる。
以上
1999年4月3日
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